●25日、ロイター通信は、中国共産党の新政治局常務委員7人に、改革派の李源潮氏、汪洋氏が選ばれなかったことについて「李氏は長老軽視が反発を招き、汪氏は薄熙来氏と同類とみなされたため」と分析した。写真は李源潮氏。
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レコードチャイナ 配信日時:2012年11月27日 8時29分
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=66844&type=0
李氏は「長老軽視」、汪氏は「薄熙来と同類」で外される=新常務委員選出の内幕―中国
2012年11月25日、ロイター通信は、中国共産党が新たに選出した政治局常務委員7人に、改革派で中央組織部長の李源潮(リー・ユエンチャオ)氏、広東省党委員書記の汪洋(ワン・ヤン)氏が選ばれなかったことについて、
「李氏は党内の長老軽視が反発を招き、汪氏は(失脚した重慶市党委書記の)薄熙来(ボー・シーライ)氏と同類とみなされたことが原因」
とする分析記事を発表した。
李氏と汪氏は党内のいわば“改革派つぶし”の犠牲になったとみられ、党の長老で元幹部2人が最終手段として「内部調査」の実施を主導したという。
「内部調査」は陰で党の実権を握る元政治局委員24人、党の長老十数人がメンバーとなり、数カ月にわたって高級ホテルを舞台に十数回協議したとされる。
この中で、李氏は党内の長老たちと“疎遠”だったことがネックに。
5月時点では常務委員入りが確実視されていたが、10月には長老軽視を理由に“李氏下ろし”の声が高まったという。
一方の汪氏は、薄氏同様に民間企業関係者の人気が高く、長老らが“右派の薄熙来”と判断。
党内の親毛沢東グループの反発、薄氏支持者の巻き返しを避けるため、常務委員入りが見送られた。
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WEDGE infinity 2012年11月22日(Thu) 城山英巳 (時事通信北京特派員)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/2382
中国共産党大会 権力闘争の全内幕
江沢民に巻き返された胡錦濤と薄熙来・毛沢東という「亡霊」
11月15日正午。中国共産党の第18期中央委員会第1回総会(1中総会)が閉幕したばかりの北京・人民大会堂。
登場予定時刻を約1時間も遅れて現れた習近平総書記は冒頭、「長く待たせました」と、集まった内外の記者500人に語り掛けた。
習の後ろには最高指導部・政治局常務委員の6人が控えた。
6人とは、常務副首相・李克強(首相就任予定)、副首相兼重慶市党委書記・張徳江(全国人民代表大会=全人代=常務委員長就任予定)、上海市党委書記・兪正声(全国政治協商会議=政協=主席就任予定)、党中央宣伝部長・劉雲山(党中央書記局常務書記)、副首相・王岐山(党中央規律検査委員会書記)、天津市党委書記・張高麗(常務副首相就任予定)だ。
■李源潮の名前あった人事案
最も意外だったのは
「まさか外れることはないと思っていた李源潮(党中央組織部長)の姿がない」(北京の改革派学者)
ことだった。
党大会での指導部人事を話し合うため胡錦濤や習近平、さらに長老らは8月初めに河北省の避暑地・北戴河に集結した。
そこで固まった人事案を知る立場にある政府幹部はこう明かした。
「当初固まった人事案では兪正声ではなく李源潮が入っていた。
その後9月になって再調整が行われた」。
北戴河会議の前半は胡錦濤、温家宝が押した。
胡は自身が総書記のほか、党中央軍事委員会主席を退く意向まで示し、人事で主導権を握ろうとした。
その結果、李源潮だけでなく、改革派ホープ・汪洋広東省党委員書記という、胡と同じ「共産主義青年団」(共青団)出身者の常務委入りを狙った。
■江沢民が推した兪正声と張徳江
一方、江沢民の牙城・上海を守る兪正声は、「江沢民一番のお気に入り」(中国筋)とされ、ある日本の要人が江と会談した際も、江が唯一、名前を出したのも兪だった。
初代天津市長を父親に持ち、習と同様に、兪は典型的な「太子党」(高級幹部子弟グループ)だが、国家の情報部門幹部だった実兄が米亡命するなどの過去もあったほか、67歳を超えており、政治局常務委員の定年ある68歳に近く、常務委入りに反対論があったのは事実だ。
重慶市トップを解任された薄熙来の後任として副首相兼任で、同市党委書記に就いた張徳江も、江が引き上げた指導者だった。
張に関しても「重慶に行ってからの実績が乏しい」との慎重論も出たが、全人代常務委員長含みでの常務入りを決めた。
北戴河会議は予定通り8月13日までに終了している。
温家宝は14日から浙江省に視察に向かったが、その後「異変」が起こる。
■李克強と王岐山の微妙な関係
8月末までにいったん固まった人事案はこうだった。
習近平▽李克強▽張徳江▽王岐山▽劉雲山▽張高麗▽李源潮
2003年春の新型肺炎(SARS)大流行の際、情報隠しで更迭された北京市長の後任となった王岐山は、パニックに陥った首都を安定に導いた。
世紀のイベント・北京五輪の準備も滞りなく進め、副首相としては08年秋以降の金融危機を大規模財政出動で乗り切った。
「消防隊長」の異名を持つのはそのためで、国務院幹部も、危機管理に弱いとされた李克強に比べ、「王岐山の方が総理にふさわしい」と言い切った。
当初、王に関して経済政策を統括する常務副首相(政治局常務委員)に就任するとの見方が有力だった。
しかし李克強の首相就任を固めていた胡錦濤と温家宝に対して
「李と王は経済政策をめぐる考え方が違い、首相・常務副首相でコンビを組ませるのはまずい」(中国政府関係者)
という声が出たという。
その結果、王は序列が4位と常務副首相より高い政協主席に就くことで折り合いがいったんは着いた。
■「天安門」理由にケチ付けた李鵬
また胡錦濤は当初、李源潮を政治局常務委員兼国家副主席に起用しようとしたが、ここでも慎重論が出て中央規律検査委書記への就任で落ち着くかに見えた。
李は党中央組織部長として習近平国家副主席を補佐し、安定した仕事ぶりを見せていたからだ。
しかしいったん固まった人事案に次々と「ケチ」が付けられた。
声を挙げた一人が李鵬元首相だった。
ターゲットは李源潮だった。
「李源潮は89年の『六四』(天安門事件)の際、共青団幹部として断固とした対応を取らなかった」。
こう批判した。
江沢民も同調したとみられる。
李や汪洋が最高指導部入りすれば、温家宝が提起した天安門事件の再評価が進む、と懸念を抱く長老がいたと言われている。
その結果、江は兪を押し込もうとした。
兪と劉雲山をめぐる環境は微妙だったからだ。
■下馬評高くなかった劉雲山
2人とも2002年から既に2期10年、既に政治局員を務めていた。
政治局員を3期できないという内規があるとされ、もし政治局常務委員に昇進できなければ、引退に追い込まれる可能性があった。
劉雲山はさほど下馬評は高くなかったし、改革派知識人やジャーナリストから見れば、宣伝部門を長く統括し、江に引っ張られた劉は「言論弾圧の元締め」ととらえられた。
北京の外交筋も「地方勤務経験の乏しい劉に序列5位の国家副主席は務まらないだろう」と解説した。
しかし江の後ろ盾があり、人事案に名前を連ねた。
一方の兪は、8月にまとまった人事案では常務委ではなく、「国家副主席」への起用が検討された。
「政治局員は2期まで」を破る特別待遇も検討されたのかどうかは定かではないが、9月に入り、江が兪の常務委入りを強力にプッシュした。
■激しさ増した「長老政治」
共産党関係者は
「江沢民の背後で動いたのは、曽慶紅前国家副主席だった」
と指摘する。
「太子党」の大物である曽は、江の腹心として仕え続け、その幅広い人脈と人を引き付ける人柄で「寝業師」の異名を持つ。
前回党大会(07年)で68歳の定年をわずかに超えたため引退したが、引退後も裏舞台で動いていた。
9月22日、「北京・国家大劇院で江が王冶坪夫人を伴い歌劇を鑑賞した」と香港紙が報道した。
そこに付き添ったのも曽であり、今も続く2人の緊密な関係を内外に示した。
曽は党大会開幕・閉幕にも登場したが、染めたとみられる真っ黒な髪と、73歳にしては若々しく艶のある顔に、副主席時代と同じ権力者としての姿が見えた。
これ以降、党大会を前に「長老政治」は激しさを増す異例の事態が展開される。
江に対抗するように、江のライバルだった李瑞環・前政協主席は、胡錦濤や温家宝と近く、薄熙来を重慶に飛ばした呉儀・前副首相と共に10月7日に北京でテニスを観戦する。
さらにその2日後には江は再び登場、北京で上海海洋大学の指導者と会見。
朱鎔基前首相は10月24日、側近・王岐山を引き連れ、北京で母校・清華大学の会合に出席し、李鵬についても国営中央テレビ(電子版)が革命聖地・延安の延安大学に通う経済的に恵まれない学生に援助を行っていると伝えた。
■新たな人事案で変わった序列
中国の指導部人事は
「海外で言われているように『共青団』『太子党』『上海閥』で派閥分けできる単純なものではない。
もっともっと複雑だ」(中国政治に詳しい学者)。
長老たちは、表舞台に出ることで、何らかの政治的意図を込めたのは間違いない。
江は兪ら自分がお気に入りの指導者の常務委入りを狙い、李瑞環は出しゃばる江をけん制しようとした。
朱鎔基は最も露骨で、王岐山の序列を上げようとしたのではないか。
李鵬は李源潮の常務委入り阻止を目指したのだろう。
その結果、10月下旬に新たな人事案が練られた。
そこには、李源潮のほか、「高調(目立ち)すぎる」(中国筋)とされた汪洋の名前はなく、兪正声が序列4位(政協主席)で入った。
さらに7位とされた中央規律検査委書記の序列が、常務副首相より上位になり、王岐山は「6位・規律検査委書記」で常務委を果たした。
■「けが」期間中、人事案練った習近平
ちょうど北戴河で固まった人事案の見直しという異例の事態に陥った9月初め、習近平は「水泳の際に背中にけがを負った」という理由で、2週間にわたり公の場から姿を消した。
筆者は「肝臓の病気」という未確認情報も得たが、習の家族に近い関係者は「水面下で胡錦濤主席と人事の調整をしていた」と明かした。
この時期、党内はかなりの緊張感に包まれていたことは間違いない。
一つは、再調整を迫られた人事が固まらなかったこと。
もう一つは、薄熙来をめぐる処分がまだ紛糾していたこと。
さらに日本政府の尖閣諸島国有化という問題が降り掛かり、大規模な反日デモが各地で発生した。
こういう中で、10月15日から予定していた共産党大会の日程も、本来なら8月末の政治局会議を経て公表するのが恒例だったが、政治局常務委員の外遊も重なり、公表できない異例の事態に陥った。
■習なしに進まない党大会準備
党大会後の11月20日に国営新華社通信を通じて公表された「党的十八大報告誕生記」によると、「十八大報告」つまり胡錦濤が党大会開幕で読み上げる中央委員会報告(政治報告)の作成に向け、1月に政治局常務委の決定に基づき、習近平を組長、李克強と劉雲山を副組長とする「起草チーム」が立ち上がったという。
大詰めを迎えた8月27日~9月4日、胡錦濤は中南海懐仁堂に地方・軍などの幹部を呼び、計7回にわたる座談会を開催し、政治報告への意見を求めている。
一方、校長を務める幹部養成機関「中央党校」(北京市)で9月1日に行われた秋季学期開学式を最後に、習は姿を消した。
5日にはクリントン米国務長官らとの会談もドタキャンした。
8月末から9月初めの座談会は何もなければ、組長の習も同席するのが当然だが、新華社報道には習の名前はない。
ただこの時期、何らかのけがか病気を抱えても、習なしには党大会に向けた準備は進まず、病院にこもり続けた、ということは普通考えられない。
このため「水面下の人事調整」という情報はかなり確度の高いものとみられる。
■フェラーリ事件で左遷された令計画
さらに9月1日、国営新華社通信は重大人事を発表する。
胡錦濤の最側近・令計画党中央弁公庁主任が、「格下」とされる党中央統一戦線工作部長に異動し、新たな中央弁公庁主任として、80年代に河北省で習と一緒に県書記を務めた栗戦書・元貴州省党委書記を任命したのだ。
一時は政治局入りが確実と言われた令の左遷人事の裏にはついて太子党元幹部は明かす。
「例のフェラーリ事件が影響した。
それに胡錦濤の下で薄熙来追及の急先鋒だった令に『やりすぎ』と反発が高まったことも大きい」
「フェラーリ事件」とは3月の薄熙来解任直後、北京で愛車の黒いフェラーリを運転していた令の息子・令谷が激突事故を起こし、本人は死亡。
なぜか全裸と半裸だった同乗女性2人も重傷を負った。
これを契機に令一家の派手な蓄財が発覚し、その後、党指導部内で問題になったのだ。
そもそも胡錦濤と温家宝が主導し、政治局常務委入りが確実視された薄熙来を解任したことで
「党が二分する天安門事件以来の政治危機」(共産党筋)
に陥った。
結果から言うと、薄事件が胡の権力基盤を弱める契機になったとの指摘が多いが、当初、権力基盤の強化を目指して薄解任を決意した胡錦濤が目指したものの一つが、最高指導部「政治局常務委改革」だった。
■政法委権力低下を狙い常務委7人体制
2002年から続いた常務委9人体制では、国務院、全人代、政協、政法(公安・司法)、宣伝・メディアなど担当が分担され、それぞれの常務委員の権限が大きくなり、総書記の決定的役割は、政治局常務委会議で意見が分かれた時に最終決定を下す、というものになっていた。
特に共産党体制の存続に関わる政法委書記と宣伝担当の権限・発言権は絶大となった。
暴動や抗議など「群体性事件」が年約18万件も頻発する中、今や政法が握る治安予算は、国防を上回る。
薄熙来も、薄の解任に反対した「盟友」・周永康党中央政法委書記の後釜を狙った。
「薄熙来は公安・司法を握り、機を見て総理の座を狙っていた」
と明かすのは重慶の関係筋だ。
これに対して胡錦濤は、政法と宣伝担当を政治局常務委から外して7人体制にし、総書記を核に政策決定の迅速化・集中化を狙った。
そして党の日常業務を統括する党中央書記局の権限を復活させようと考えた。
組織部長や宣伝部長、弁公庁主任ら党中央の政治局員クラスで構成される書記局への影響力を行使し、政法・宣伝分野を事実上の「総書記直轄」にし、総書記の権限を高める方針だった。
■「核心」になれなかった胡錦濤
さらに胡は5月、北京で「党員・指導幹部会議」を開催し、党大会での政治局常務委員・政治局員の人選に向け、会議に参加した幹部が候補者を推薦する制度を導入した(11月15日国営新華社通信)。
常務委員7人を前提に、既に常務委入りし、留任が決まっていた習近平と李克強を除き、5人を推薦することになったとされる。
権力基盤強化に向けて胡錦濤が描いた戦略のうち、「常務委7人制」は実現した。
しかし7人の中で、多数派または一定の割合を占めて「院政」を敷くという核心問題は、皮肉にも薄熙来事件と、薄追及の中心だった側近・令計画の不祥事の影響を受けたと言わざるを得ない。
江沢民は自身を毛沢東、鄧小平に続く「核心」と位置づけ、江時代は「江沢民同志を核心とする第3代中央指導部」と呼ばれている。
しかし胡錦濤時代は10年を経ても「胡錦濤同志を総書記とする党中央」にとどまり、「核心」と呼ばれなかった。
江が健在を誇示する中、胡は江に配慮して「核心」を名乗るのを避けてきたという見方が強いが、この10年間、総書記・国家主席として胡は、全面引退をしたにもかかわらず「序列1.5位」を続けた江が目の上のたんこぶだった。
■軍事委主席に残れ
こうして胡錦濤は今回の常務委人事を、5年前の第17回党大会に続き、思うように進められなかった。
しかし同じ共青団出身で、チベット自治区で仕事を共にした「小胡錦濤」・49歳の胡春華内モンゴル自治区(広東省党委書記に就任予定)を政治局員に昇格させ、5年後の第19回党大会で政治局常務委入りさせ、「ポスト習」の座に就かせるためにも影響力を誇示しなくてはならないのだ。
胡は、尖閣問題を受けて周りから慰留される形でいったんは党中央軍事委員会主席に留任する意向を示したが、最終的には退任し、「完全引退」する意向を固めた。
総書記退任後も2年間にわたり軍事委主席を続けた江とは違う決断だった。
江を「道連れ」に「長老政治」を終わらせるとの見方が出ているが、
「違う。胡は軍事委主席に残りたくても残れなかった」(中国筋)
という。
■軍人事の前倒しで江派排除
胡は自身が軍トップを退く前に、人民解放軍制服組の軍事委副主席(2人)から何としても江派を排除しなければならなかった。
軍4総部トップの中で唯一、年齢上、軍事委副主席への昇格が濃厚だった常万年総装備部長は、蘭州軍区時代の先輩だった制服組トップ・郭伯雄前軍事委副主席と緊密な関係を構築した。
瀋陽軍区司令官時代の常は、北京に来るたび、郭の元に直行したほどの仲だったという。
郭は最後まで、江沢民に忠誠を誓い続けた江の側近。
郭は江の影響力を盾に、常を後継にするとの見方が強かった。
これに危機感を抱いた胡は、軍事委主席を辞める前の自分の力のあるうちに、まず軍の4総部トップの総入れ替えに着手。
通常、軍指導部人事は党大会直後の1中総会で動くものだが、前倒したのだ。
副主席も党大会に先立つ第17期中央委員会第7回総会(7中総会)で、江派とは言えない范長竜済南軍区司令官と許其亮空軍司令官を選出した。
そして常万全を国防相に押し下げた。
■反日デモ契機に対「薄熙来」強硬に
指導部人事をめぐり難航を極めた9月中旬。
反日デモが各地で吹き荒れたが、これが薄熙来の命運を決めた、というのが、中国政治に精通した学者の見解だ。
「薄事件後の党内の混乱を受け、『低調』(控え目)に薄の処分問題を決着させようとした胡指導部は、反日デモ前後から急に強硬になった」
英国人実業家ニール・ヘイウッドを毒殺した薄の妻・谷開来の公判(8月9日)には、薄の関与を匂わす表現はなかった。
しかしその後、薄の元腹心・王立軍元重慶市公安局長の公判(9月18日)では、谷の毒殺事実を報告に来た王に対して激怒した薄がびんたし、この2人の決定的対立が、王の米総領事館(四川省成都)駆け込みにつながった流れが具体的に描かれた。
■薄熙来・毛沢東という亡霊
前出・学者は
「胡錦濤は、薄を支持する左派勢力の台頭を恐れた。
毛沢東の肖像画を掲げる反日デモ参加者に左派勢力の影を見た胡は、これら勢力を抑えるためにも薄に対する刑事責任追及という強硬な方向に転換した」
と明かす。
胡は9月28日の政治局会議で、11月8日の党大会開幕とともに、薄の党籍剥奪と刑事責任追及を決定したのだ。
10年前の就任当初、毛沢東の力を利用した胡錦濤も、薄熙来事件以降、「脱毛沢東」路線を強め、党大会の政治報告では
「閉鎖的で硬直した『老路』(かつての道)を歩まなかった」
と訴えた。
しかし胡錦濤の前には、薄や毛が亡霊のように現れ、権力闘争に敗北するという結末を迎えたのだ。
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